聖霊降臨後第3主日

今日の福音は、「イエスは使徒たちに言われた。”人々を恐れてはならない”」で始まる。私は、最後の晩餐でのイエスの”別れのことば”を思い起こす。
「心を騒がせるな!」。この言葉は、母親から幼い子へのことばでもあり、先生から生徒へのことばでもある。そして、多くの場合は、本当に、その相手に「心を騒がせる理由があり、不安の恐怖の中にいる」から言われることばである。福音史家マタイは、紀元80年頃この福音書を記述した。当時の社会の反対やユダヤ教の反発のうちに生きていたキリスト者共同体に、イエスのことばを思い起こさせ、福音宣教の使命に生きるよう励ましのことばを送っている。地上のイエスを囲んだ男性や女性の弟子たちは、限られた小さなグループであった。その「隠れたところ」から恐れずに公に宣教する時代が訪れたとマタイは訴える。今日の福音箇所で、マタイは、3回ほど「恐れるな」と記す。その言葉の裏には、この先に待ち受ける迫害者たちを恐れないようにという強い励ましがにじむ。神は福音のメッセージを保証してくださるので、すべての人に宣べ伝える福音に対する暴力や迫害を恐れることはない。
今も未来も、宣教師として迫害されることを恐れるな。当時体と魂は人間の別々の部分ではなく”魂”は人格の命の原理として考えられていた。体は殺しても、その命の原理は、愛する神の御手だけにあるのだから恐れることはない! イエスは、二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか?と問いかける。神のこのもっとも小さいものに対する摂理や思いやりを思い起こすならば、イエスの弟子に恐れるものは何もない。「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10·29-31参照)。最後にイエスは、弟子の私たちー人一人にご自分の「証し人」になるように勧める。宣教する証しは「キリストを告白する」ことと結び付けられている。恐れずに、公にキリストを認めるか否定するかによって、イエスの弟子は最後の審判を受ける。当時のユダヤ教とは対比的に、福音宣教は神秘宗教や密教的な教えではないと、マタイは述べている。

マタイによる福音書第10章24―33節

2020年6月21日