聖霊降臨後第4主日

福音史家マタイは、紀元80年頃この福音書を記述した。当時の社会の反対や、ユダヤ教の反発を受けながら生きていたキリスト者共同体に、イエスのことばを思い起こさせ、福音宣教の使命に生きるよう励ましのことばを送っている。地上のイエスを囲んだ男性や女性の弟子たちは、限られた小さなグループであった。その「隠れたところ」から、恐れずに公に宣教する時代が訪れたとマタイは訴える。
マタイは今日、4つの文章でイエスに従うことについてメッセージを伝える。一般論ではなく、実際に迫害のただ中にあったときに、もし、それがイエスに従い、証しすることを妨げるならば、一番親しい家族関係でさえも、キリストのために後回しにしなければならない。キリストの弟子でいることを他のすべてのことよりも優先すべきであろう。
非常にきびしい要求であるが、このことによってすべての人との新たなつながりが生まれることになる。イエスに従うためには犠牲がともなうことがありうるのだ。弟子は、イエスのように自分の十字架を担うことを覚悟すべきである。“真の命”を得られるのは、キリストの道を歩むことによってのみ可能となるからである。
最後の文章(40-42)で著者は“遣わされた人々を受け入れる”テーマで結ぶ。ここで述べられていることは、キリストの名によって派遣された人々をもてなすだけでなく、彼らの教えに心を開き、それに従って生きることをも意味している。
「預言者や正しい者」はキリスト者の共同体での役割を指している。「小さな者」は当時の社会や共同体のもっとも弱い人々(子供、貧しい人々や、すでに迫害の犠牲になった人々など)のことを指していると思われる。
私の感想。マタイ10:39から、私たちの恐れを取り除く神はだれであるかを、マタイはこの箇所の中心課題として主張する。自分の命を失うとは自己嫌悪を意味するのではなく、キリストに従うことであり、それはキリストと出会った喜びの体験から来る本当の自己実現への道となる。

マタイによる福音書第10章34ー42節

2020年6月28日