聖霊降臨後第21主日

イエスは神殿の境内で、律法の専門家と最も重要な掟について討論する。律法の専門家がイエスを試す。彼はおそらくイエスに“重要な掟”と“重要でない掟”とを区別するための基準を求めているのだろう。イエスはこの問題に答えていない。なぜなら、イエスは、神と人とのかかわり方こそが、すべての掟において重要であると考えているからである。すべての福音書のメインテーマはむしろ、人々は神に愛され、赦されているというメッセージである。これこそがイエス自身の洗礼体験であった。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた(マタイ3:17)。イエスにとって、すべてを尽くして神である主を愛することは、アッバ・父である神に常に愛されていることへの応答であり、愛の息吹である聖霊の働きに動かされている証拠となる。神に愛されていることは、イエスの生き方と福音宣教の前提であり、源泉である。だから、これが最も重要な第一の掟である。神を愛することに、他のすべての掟が由来するからである。「第二も、これと同じように」とは“神への愛”と“隣人への愛”は同一のものであると言っているのではなく、両方の本質や重要性が同じようなものであると示唆しているのである。「自分のように愛しなさい」とは自分を愛することを前提にしている。マタイ福音書における「隣人」とは「すべての他人」を意味し、その限定は限りなく引き伸ばされる。イエスにとって、(隣)人を愛することは、神に愛されている“息吹”をいただき、その愛の息吹を他の人々と分かち合い、人々が喜びのニュースとして体験できるように生きることであった。父なる神のように、イエスは、出会うすべての人が自分よりちょっぴり大事であり、友と敵をアガペ―の愛で自分のように愛していた。最後の晩餐の時にイエスは弟子たちに言う。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34参照)。「主イエスよ、私たちにも、神に愛されている喜びを、隣人を愛することによって喜びのニュースとして分かち合い、体験させてください。」今日のイエスの言葉と招きについて黙想をしたい。

マタイによる福音書第22章34-46節

2020年10月25日