聖霊降臨後第11主日
イスラエルの民(子どもたち)に対して与えられるべき神の恵みを、異邦人(小犬)に対して与えてはならないという意味の応えは、女性の心を傷つけたにちがいありません。イエスは女性を「小犬」呼ばわりしているからです。しかし、女性は決して負けまいとして、異邦人(小犬)でさえも主人であるイスラエルの民の食卓からこぼれ落ちるパンくずをいただくのです、と皮肉たっぷりに言い返します。
娘を助けたいがために一心不乱にイエスに食い下がる婦人の熱意。つまり、あまりにもしつこくイエスを引き留めようと躍起になる異邦人の女性の気持ち。子どもをもつ親ならば、よくわかる感覚なのではないでしょうか。何としても我が子を助けたいという想いが、親をして狂気の行いに踏み出させるのです。母は強し。大胆な母の勝利。イエスは、その母親による子ども想いの熱意を最高度に賞讃します。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と。つまり、「あっぱれ、見上げた根性だ」と言わんばかりに、イエスは女性をほめそやすのです。
イエスは常に相手の熱意に注目しています。どれだけ一心不乱に誰かを助けようとしているのか、自分が侮辱されたとしても諦めずに誰かを愛してやまない人間の気高さを評価するのがイエスです。
イスラエルの民は時代が経つにつれて、次第にかたくなになり、自分たちだけが神の恩寵を得ている特別な共同体なのだと、傲慢にも自己主張する心の狭さにさいなまれていました。神の寛大さを独り占めして自己満足の状態から抜け出せなくなったイスラエルの民は自分たちのことしか考えませんでした。誰かを助けたいという熱意さえもいだかずに、ただ自分たちの利益だけを保とうとして閉じこもっていたイスラエルの民の愚かさは今日の私たちの欠点とも共通しています。自分たちこそが洗礼を受けて救われる特別な恵みの所有者であると錯覚しているわけです。しかし、いまこそ、あの婦人のように誰かを助けたいと熱望する感触を取り戻すときなのではないでしょうか。信仰とは誰かを助けたいという狂おしいばかりの熱意なのです。
マタイによる福音書第15章21-28節
2020年8月16日