聖霊降臨後第13主日
イエスは生前、ご自分の受難を予測していたのでしょうか? この問いに対して、色々な学者が色々な答え方をしています。ある人は、聖書に書いてあるとおり、ご自分の死を予測していたのだと言い、他の人は、聖書が記されたのはイエスの死後だから、死刑に処された事実を知っていた福音記者が物語の中でイエスが予測していたように語らせたのだと言います。今から4、50年前の聖書学ではこのような論争を激しく行っていましたが、そういえば、最近はあまり聞きません。
イエスは組織の中枢に君臨する人たちから排斥される。排斥されるだけでなく、苦しみ、挙げ句の果てに殺される。組織の枠組みでしか物事を考えられないペトロは、それを否定する。「とんでもない!」と。それを聞いたイエスは、「神のことを思わず、人間のことを思っている」と言い、ペトロや弟子たちを戒める。そして、イエスは、自分に従いたい者は自分と同じように行動すべきだと言います。自分を捨て、自分の十字架を背負う、このような人生を送るべきだというのです。
問題は、何のために? なぜ、自分を捨て、自分の十字架を背負わねばならないのか? まさしくそれは「復活」のためです。イエスは自分を捨て、自分の十字架を背負う痛みと苦しみの人生が、ただ、復活という一点の目的に絞られていたことに変わりありません。復活のために、人は神との完全なる関係にあって、天命を背負い、死んでいくのです。復活は、ひとりの人の命の重みであり、輝きです。イエスは先人として天に通じる一本道を開き、わたしたちに示してくださいました。どんなに魅力的な組織と比べても、ひとりの人の命はかけがえのないものです。どんなに立派な塔のような建物に比べても、ひとりの人の命は美しいのです。イエスも、全世界を手に入れても、「自分の命」を失ったら意味がないと言っています。「自分の命」は関係性の中に潜んでいます。自分の命を救いたいと思えばそれは得られない。これは、殻に閉じこもった状態です。しかし、他者のため、イエスとの関係性において命を失う、つまり、自分の命を与え、用いるのであれば、逆に命を得るのだというのです。
マタイによる福音書第16章21-27節
2020年8月30日