聖霊降臨後第16主日

福音において、「友よ」と呼びかける神。神は常に相手を「友」として迎えます。しかし、人間は常に他人と自分とを比べて、ねたみにさいなまれています。自分が、神から「友」として親しく認められているということに気づかない人間のおろかさ。つまり、神の気前のよさをねたむ人間の浅はかさ。相手の思いに気づかないことほど、哀しいことはないでしょう。しかし、私たちは、たいていの場合、にぶいまま生きてしまっています。
使徒書における、「私にとって、生きるとはキリストである」というパウロによる断言は、あまりにも激しい愛情に満たされています。キリストをあかしするためだけに生きているパウロの熱情。もはや、パウロはキリストを体現するためだけに生きています。自分の自我をはるかに凌駕するキリストの愛情の深さを、パウロはひたすら実感して、絶えずキリストと重なるようにして生きています。
神の思いを明確に体現して生きているイエス・キリストを信じて、その態度を自分の身において生きるパウロは、キリストとのつながりによって神とも深く出会います。神の思いに気づかない労働者たちの浅ましさとは真逆の姿勢をパウロが選び取っています。しかし、キリストとともに三年間の旅をして協働していた十二人の弟子たちはおたがいに比較し合ってあせったりねたみをいだいたり、自分のことしか見えていない状態にとどまっていました。そのようなおろかな弟子たちに対してキリストは、たとえ話をとおしてほんとうの生き方に気づかせようとしました。
今日の朗読をとおして、私たちはパウロのように神の思いに気づいて、神から遣わされたキリストと志をひとつにして生きるようにうながされます。人間同士のおろかな比較し合いに埋没するのではなく、むしろまなざしを天に向かって高くあげて神の深い愛情の思いに気づいてゆけますように。

マタイによる福音書第20章1-16節

2020年9月20日