聖霊降臨後第20主日

イエスの賢さには、いつも驚嘆させられます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。これほどまでに適確な答え方は他にはないでしょう。もしも、私自身が同じ状況に追い込まれたとしたならば、とてもイエスのようには明快な答えを出せないとおもいます。福音書を読み返しながらイエスの言動をたどるたびに、上からの智慧というか、絶対的な実力を垣間見させられます。
ともかく、「皇帝か神か、どちらを選ぶのか」という問いは、どちらを選んだとしても窮地に陥るように計算されていた巧みな「わな」でした。イエスに質問を浴びせたファリサイ派の弟子たちは上司の悪意あるたくらみを忠実に実行に移しました。その弟子たちは表面上はイエスのことを尊敬しているようにふるまいつつも、心のなかは悪意に満ちていました。二者択一のわな、それはまことに巧みに仕組まれていました。同じ状況は、いつの時代でも起こります。悪意をもって他者を陥れようと画策する人間は、相手に二者択一のわなを仕掛けるものです。相手は圧力によって、焦り、おもわず目先のことしか見えなくなり、敵のおもうつぼにはめこまれてしまいます。この世の運営者と万物の創造者との価値観の瀬戸際で生きているのが人間というものなのでしょう。俗なる世界と聖なる世界との絶えざる「つなひき」の状況において、あらゆる人は人生の選択を迫られています。
しかし、あれかこれかという単純な二者択一のわなにはまらない、新たな視点を見つけることが重要となります。つまり「相手を尊重する」という視点です。この世の支配者をも尊敬し、彼らのものは彼らに返し、万物の主宰者である神をも尊敬し、神のものは神に返す、という「相手を尊重する」姿勢を保つことが人間の誠意なのではないでしょうか。誠意をもって生きること。自分の利益のために他者を陥れるのではなく、相手を尊敬することが大切なのだという「愛の動機」をイエスがファリサイ派の弟子たちに教え諭そうとしている様子が本日の福音朗読箇所からひしひしと伝わってきます。

マタイによる福音書第22章15-22節

2020年10月18日