復活日
「たわ言」という言葉が福音朗読箇所には出てきます。使徒たちは婦人たちの言葉を「たわ言」として軽くとらえました。それほどまでに、使徒たちは疑心暗鬼に陥っていました。もう何も信用することができないという状況にまで追い詰められていたからでしょう。つまり、使徒たちは恩師のイエス・キリストの死によって、すべてを失い、もはや頼るべき相手がいないままで放置されていました。まるで見捨てられたかのような孤独感にさいなまれて、自暴自棄になっていました。もはや他者を信用する気が一切ない、諦めの状態の使徒たちにとって、婦人たちの報告はどうでもよいことだったのでしょう。
福音朗読箇所は、まさに人間が復活の出来事に直面したときの自分たちの都合を見事に描いています。つまり、人間というものは自己中心的にしか物事を解釈することができないという限界と弱さをかかえて生きているのです。復活という出来事は、イエス・キリストがいまも生きつづけて私たちのそばにともにいる、という真実なのではありますが、その真実をすぐに理解することは人間には難しいのです。
復活を受け容れるというときに、時間をかけて、ゆっくりと理解する道筋が、私たちには必要なのです。使徒たちは様々な人びとの報告を聴きながら、徐々に心を開いて他者の言葉を受け容れることに目覚めていったのです。イエス・キリストは「死を乗り越えて生きつづける力強さ」と、相手を決して独りに捨て置かないという「ともに歩む」姿勢を確かに実現してくれます。それが復活の出来事です。使徒たちはイエス・キリストの「あらゆる困難をはねのけるだけの力強さ」と「ともに歩む慈愛深さ」を、すっかり忘れていました。三年間かけて、イエス・キリストといっしょに過ごした使徒たちが当初感じていたイエス・キリストの「力強さ」と「慈愛深さ」を、使徒たちはキリストの死後のひとときにおいては決して想い出すことなく、勝手に自分の都合で物事をゆがめて落胆していたのです。使徒たちにとっても、私たちにとっても、いまこそ、頑固な自分勝手さをゆっくりとほぐすことが、復活を理解するための第一歩となるのでしょう。
ルカによる福音書24章1-10節
2022年4月17日