聖霊降臨後第3主日

ガリラヤにおけるイエスの”福音宣教の春”が終わり、この箇所から、イエスのエルサレムへの旅が始まる。この旅はイエスの人生の最後の”旅”になる。敵対者のサマリア人からはもちろんのこと、自分の弟子たちからも理解されない”道”である。しかし、イエスはあくまでも、救いと憐れみの道を選び続ける。イエスは”顔を固めて”、エルサレムへ上っていく。”顔を固めて”とは、抵抗を受けると覚悟した上での預言的な決断を意味する。そして、イエスに従う私たちそれぞれにも覚悟と決断を要求する。エルサレムへの旅は、イエスの価値観と弟子に求められる姿勢をテーマにしている。今日の福音書はその”旅”の出発を紹介する話である。エルサレムに向かっているイエスに従うとはどういうことであるか。イエスと3人の人たちとの対話で描写されている。自ら進んでイエスの弟子になりたい人がある。イエスの答えは「狐には穴があり、空の鳥にも巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」すなわち、”最も落ち着かない動物”でさえ、夜を暖かく過ごせる「場」をもっているにもかかわらず、自分はそれをもたないし、弟子にも約束できない。イエスは自分に従うようにと人を選ぶこともある。イエスに呼ばれた”ある人”は、条件付きで従いたいと願う。それは尊い奉仕の前に、親孝行のための条件を付ける。父を葬ることを先に済ませたいと。しかし、神の国の価値観はそれにも勝る”命の課題”である。家族へのいとまごいをしてから従いたい人もいる。家族とのつながりは過去に縛られる妨げにもなりうる。神の国のために生きることは、弟子に対して前向きの姿勢を要求する。2000年前には、鋤で土を耕すことは大変な仕事だったし、また、全身の心配りを要する仕事であったから、中途半端な気持ちではできない。神の国も同様である。
私たちが人生の道を歩んでいくとき、主イエスに従うことを目指しながら、何を求め、どんな条件を付け、何を優先したいのかが、常に問われている。今日、祈りたい。「いのちの源である神よ、わたしたちを聖霊で満たしてください。自由と喜びのうちに信仰の道を歩み、救いの希望をすべての人と分かち合うことができますように。アーメン」

ルカによる福音書9章51-62節

2022年6月26日