大斎節第5主日
この箇所を読むと、「わたしは復活であり、命である」ということを全ての人が悟り、信じるために御父と共に働かれる、死を前にしたイエスの憐れみ深いお姿と、ある次元でしかイエスを信じていない人々の姿が見えてきます。そして、イエスは今を生きる私にも「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われます。そう問われて私は、この聖書の中の、迫害を恐れて神の呼びかけに応えられない弟子たちや、応えたものの、後で自分の思いを優先させてしまうトマス、また古い教えや習慣に留まっている人々……それぞれに似た私がいることに気がつきました。何度も何度も今日のみ言葉を読み、祈り、イエスに私のありのままの姿、気持ちを話しました。
すると、マルタが21節で、マリアは32節で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と二人が同じことを言っているのが、とても気になりはじめました。「ここに」というのは、「私の内」のことで、私の内におられる神を信じるとき、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」というみ言葉が現実になるのではないか。私が私の内におられる主イエス・キリストから離れたとき、「夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」という状態になってしまうのではないか……と、いろいろなことに気づきました。イエスはこのみ言葉を通して、私に応えてくださったと感じます。
主イエス・キリストとつながっていれば、肉体は死んでも霊魂は生き続けることができる。生きていて主イエス・キリストとつながっていれば、決して死ぬことはない。そのことを信じて毎日を生きたい、と希望がわいてきました。しかし、私は弱い人間です。そう生きていけるように、と神の恵みを願いました。毎日の生活の中で、私の内に、また他の人々の内におられる主イエス・キリストと、聖霊の導きによってつながり、信じるとき、そこにはすでに永遠の命があるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書11章17-44節
2023年3月26日