聖霊降臨後第20主日

イエス・キリストは祭司長や民の長老たちに「たとえ」を語ります。おそらく、真実をそのまま語れば、指導者たちが怒ることが予測されるからでしょう。「たとえ」で語れば、相手が本気にならないかぎりは、さしさわりのない他人事として聞き流すこともできるからです。
キリストからいさめられたイスラエルの指導者たちは決して悔い改めませんでした。彼らが激情し、かえってイエス・キリストを目の上のたんこぶであるかのように邪魔者扱いして十字架上で処刑するまで追いつめたからです。
イエス・キリストによる今日のたとえ話に登場する王とは神のことであり、王子はイエスのことです。つまり一番最初に王から婚宴に招待されていた者たちは、ことごとく反抗して、王のいうことをまったく聞かなかったのでした。そのたとえは、まさに神のみむねによって地上に派遣された神の子としてのイエスをはねのけて亡き者とすべく画策する、イスラエルの指導者たちのおろかさを徹底的に指摘する呼びかけでした。
本来ならば、祝宴こそは、あらゆる人の心を愉しませて、あらゆる涙をぬぐわせる慰めのひとときなのです。祝宴は神による人間に対する愛情表現なのです。まさに使徒書で述べられているように、神こそが人間を強めて立ち直らせます。しかし、人間はあまりにもおろかであり、神からのありがたい呼びかけを勝手に拒絶するほどなのです。
私たちも、イスラエルの指導者のようなおろかな状態に陥らないように、常に自分の心の動きを見直さなければならないでしょう。父である神が、どれほどまでに私たちを安心させるべく愛情深く招いてくださっているのかをおもうにつけて、その神の愛情深さが実現した神の独り子としてのイエス・キリストの派遣の出来事を、大切に受け留めなければならないはずです。聖餐式の儀式のなかで、父と子の連帯による私たちの救いの出来事を今日も丁寧にかみしめながら、自分たちの受け留め姿勢をいま一度深く反省してまいりましょう。

マタイによる福音書22章1-14節

2023年10月15日