聖霊降臨後第10主日
イエス・キリストは愛の炎を燃やすために来ました。神の愛の力をあかしするために。神の愛は、弱っている者を徹底的に護りぬきます。しかし逆に、神の愛は、傲慢な態度で高ぶる者を徹底的に滅ぼし尽くします。つまり神の愛の力は「両刃の剣」(もろはのつるぎ)です。神に対応する相手の姿勢に応じて、まったく逆の効果をもたらすからです。
神の慈愛深い温情を必要とする、弱り切った相手に対しては、神の愛はあたたかく、心地よく感じられます。しかし、神を必要とせずに、むしろ自分を神として高ぶる者に対しては、神の愛は燃え盛る地獄の火のように灼熱の破壊的なエネルギーとして感じられ、できれば避けたい圧力となります。
「あなた」は、どうでしょうか。果たして、神に信頼して助けを求めているでしょうか。それとも、神に逆らって遠く離れようとして、自分勝手にうぬぼれているのかもしれません。神の慈愛深い温情を、そのまま人間社会に伝えようとして活躍しているイエス・キリストの愛情の炎を、「あなた」はどのように感じているのでしょうか。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」というイエス・キリストの呼びかけは、常に神の愛の炎が相手の生き方を鋭く問いつめるものであることを如実に思い出させます。
いかに親しい家族同士のあいだがらであったとしても、イエス・キリストが伝える神の愛の炎を前にしたときに、それぞれの生き方が問われることになり、相互対立につながるという厳しい現実が、福音朗読箇所では明確に示されています。
使徒書において、神の愛の炎を理解して生きる信仰者は、敵対する傲慢な者たちから徹底的に反発されて、血を流すほどの責め苦を受けることが厳然として述べられています。エレミヤやイエス・キリストのように敵対者たちからなぶられて殺害されたとしても、神の慈愛深い温情のみに人生を賭けたほうが、栄光あるいのちの状態へと確実に組み込まれる希望が見出せるのです。決断して忍耐強く前進するしか道はないのです。
ルカによる福音書12章49-56節
2025年8月17日