聖霊降臨後第15主日

今日の福音朗読箇所では、不正を働く管理人が登場します。この抜け目ない管理人のたとえ話を、イエス・キリストが弟子たちに語っています。マタイ福音書の共通の箇所を読むと、イエス・キリストは不正を働く管理人の動きかたをほめていますので、つまり「機転をきかせる」という人間の努力の仕方を認めています。しかし、ルカ福音書では「忠実さ」のほうに強調点があります。物事にこだわって、自分のできることをひたすら最大限に駆使して生き残ろうとする必死さを、弟子たちはいまだ備えていなかったからです。「忠実さ」がなければ神への信仰は深まりません。
神は、人間が追い詰められてつぶされる悲惨な状況を見過ごさないで、必死に救おうとします。神による寛大な受容の慈愛深さが強調されているのです。しかし、人間は他者を利用して自分だけ得をしようともくろみます。相手をつぶして利益をせしめるのが人間の姿勢です。神への信頼を深めて忠実に神の慈愛深さに見習う信仰者は、他者を決してつぶしません。神の慈愛深さに習うのか、それとも人間的な都合で富を独占して他者をつぶすのか、私たちは常に問われています。
ところで、現代人はお金を信用して生きています。お金にこだわるという独特な信仰を抱きます。お金を崇拝して、追い求める人が多いです。まるで「お金教」です。ほとんどの人が特定の宗教を信じていないと述べる日本では、しかし「お金教」を信じている人が意外と多いです。お金さえあれば、自分の望みが何でもかなう、という性急な幻想をほとんどの人が抱きます。それゆえ、現代人は「お金教」の奴隷として生きています。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)というイエス・キリストによる皮肉は妙に納得できます。今日の、ルカによる福音書も、マタイによる福音書と共通する呼びかけをしています。
人間は誰かに頼らないと生きてゆけません。究極的には、お金に頼るのか、神に頼るのか、人間は一瞬一瞬、二者択一を迫られて生きています。

ルカによる福音書16章1-13節

2025年9月21日