聖霊降臨後第16主日

律法によれば、土地は全て神のものであり(レビ記25:23)、そこから得た富は、真の地主である神にお返しするために貧しい人たちに施すという教えだったようです(申命記15:11、イザヤ58:6−7)。しかしこの金持ちは、神からいただいた富を自分だけのものにし、この世で自己中心的な生活を送りました。門前にいるできものだらけのラザロには、死ぬまで無関心でした。もしかすると「そのうち施そう」と思っていたのかもしれません。また、当時のファリサイ人の多くがそうであったように、自分は正しい者だから神の祝福として富を与えられている、と都合よく律法を解釈し、貧しい人たちを見下していたのかもしれません。一方ラザロは、律法を信じ、金持ちからの助けを待ち続けていたのだと思います。イエスは、私たち一人一人が、神からいただいている「富」を惜しまずに隣人を助けるために使うようにと教えられます。
神が与えてくださる「富」とは何でしょうか。ある時、白杖を持った人がうろうろしています。どっちに行けばよいのかわからなくなったようです。その時、一人の人がその人に声をかけました。そしてその人の手をとり、その人が向かっていた方向とは逆の方へ歩いていきました。この人が神からいただいた富は、「助けが必要だ」という心の動きをすぐに行動に移せる慈しみと勇気ではないか。それに貴重な時間を隣人のために捧げている、と気づきました。助け手とそれを受け取った人の間には、天の国が実現し、神の富を受け取った人は、次の隣人へと神の富を渡していき、天の国は広がっていくのだと希望の道が観えたような気がしました。
神からの富(恵み)を、自分だけのものにしたり、自分の都合のままに使ってはいないでしょうか。一人一人がいただいている神からの富を、隣人のために、惜しみなく使い、神の愛をつなげていく者となれますように。

ルカによる福音書16章19-31節

2025年9月28日