降臨節第4主日

それまで一度も子を産んだことのない「おとめ」と「年をとっている女性」とが子を産む。それらのイメージは、神のわざの偉大さを物語っています。「神にできないことは何もない」という神の強烈な主権と活躍が救いの歴史をつむぎ出すという事実が、私たちに突き付けられているのです。いまから二千年前のイスラエルの社会の通常の女性観では、「おとめ」から「成熟した女性」を経て「年をとっている女性」へ、という三段階が女性の一生とされていたわけです。そのため古代のイスラエル社会では「成熟した女性」つまり「子を産んで育てた女性」が女性の理想像とされました。そうなると基準は「成熟した女性」であり、「おとめ」および「年をとっている女性」は両極端な状態としてあつかわれます。古代のイスラエル社会では「おとめ」は「未熟さ」の象徴であり、「年をとった女性」は「枯れ」の象徴です。しかし神は「成熟した女性」のみならず、両極端の立場の女性たちにも期待を示して、重大な使命をまかせる、という事実をルカ福音書が強調します。神のわざは人間の規準をはるかに超えるかたちで実現します。世間の常識を越える仕方で、神は歴史を変革します。驚くべき歴史の転換期にマリアとエリザベトが活躍します。これら二人の女性が救いの歴史を切り開く先駆者となりました。イスラエルの男性中心社会において「子を産み育てたことのある女性」つまり「成熟した女性」がようやく発言権を得ていたのに対して、神が創り出す新たな世においては「おとめ」や「年をとった女性」こそが重大な役目を果たすのです。つまり、両極端に位置する者こそが神のわざを生きる適任者として活躍してゆきます。秘められた計画を実現する神、その神が世間の予想を超える相手にすべてを託します。マリアとエリザベトは神からの呼びかけを受けて、自分たちの予想をはるかに超える人生の歩みを始めました。私たちもまた、それぞれ未熟さ、あるいは年をとった苦しみによって悲しみや痛みを感じて生きています。しかし、その私たちを用いて、神は何か大きな実りを生じさせるべく計画します。神は私たちに安らぎを与えつつも歴史を大きく導くようにとうながします。

ルカによる福音書第1章26-38節

2020年12月20日