聖霊降臨後第12主日

あらゆる人を生かすために、イエスは来られました。言わば、イエスは相手を活かすいのちの「たべもの」として自分自身を献げ尽くしたのです。
人が生きるためには、力づくで他の生き物を殺してまでも、相手を食べねばなりません。つまり、「たべもの」とは、殺されていった生物の姿なのです。まさに、生きることは、殺すことに他なりません。生き物のいのちを奪わなければ生きていけないのが自然界のあらゆる生物の宿命です。しかし、イエスは、自然界のあらゆる生物の宿命を逆転させるような驚くべきわざを行ってくださったのです。自らのいのちを与えつくして相手を活かす。――これこそが、新しい生き方そのものです。生きるために相手を殺して、そのいのちを体内にとりこむという現世の哀しき自然法則を乗り越えて森羅万象を救いの関わりへと変容させていく神のわざがイエスによって実現したのです。これこそ、神の愛情の現われとしての最高のしるし、奇跡、あまりにも深い智恵だと言えるでしょう。実に、「感謝の祭儀」(=エウカリスティア=聖餐式)こそは、主イエスを通して示された神のおもいが明らかになるひとときです。パンとぶどう酒を献げることによって、十字架の上に挙げられたイエスの姿を垣間見ることになるからです。「まことのいのちのたべもの」としてのイエスの全存在を体験する場が「感謝の祭儀」なのです。生きるために「主のからだ」をいただく貴重な場が「感謝の祭儀」なのですから、これほどのチャンスを逃すわけにはいかないでしょう。何とかしてあらゆる人間を助けたいという切実な神の愛情のおもい。その深いおもいを体現してくださった主イエス・キリスト。まことのいのちのたべものとしての主のからだを食べることで、いのちを献げ尽くす新たな生き方があることを実感する私たち。――いのちをいただいた人は、ひたすら感謝するしかないのでしょう。人間があらゆるいのちを奪いながら自己の野望をエスカレートさせていくという世の中の趨勢がますます勢いづく昨今、それでも、今日も「感謝の祭儀」のなかで神が「いのちのたべもの」として人間を活かしつづけています。

ヨハネによる福音書6章53-59節

2021年8月15日