聖霊降臨後第13主日
パンのしるしは、イエスの憐れみのメッセージを具体的に実現する場面である。イエスのガリラヤでの宣教活動のクライマックスとして、四福音書はいずれも、パンのしるしの出来事を記述し、さらに加えて、このような状況でのイエスの宣教活動の危機を暗示する。空腹の人々に食べ物を与え、また、食事の交わりをとおして人々と分かち合うことは、イエスの行動の著しい特徴であった。イエスのことばや行動による何かが、人々や弟子たちの間に非常に熱狂的な反応を巻き起こしたことは間違いない。イエス自身はこのパンのしるしゆえに、人々が自分を誤解していると感じ取り、彼らの自分に対するメシア的な期待には、もはや応えられないことを悟ったのである。だから、イエスが‟パンのしるし”の後、すぐに群衆を解散させ、また弟子たちには群衆から離れて船に乗るように命じ、自分は一人で長い間祈るために退かれたのである。その時から転換期が始まる。そこでイエスは、自分と弟子たちがこれから進むべき、これまでとは違う道を見つめなおす。それは、アガぺの道であるとともに、苦しみの道となり、しるしを行う道は、死に至るまで仕える道となる。「わたしは天から降って来たパンである」と聞いて弟子たちのつぶやきが始まる。問題はイエスの「起源」についてである。すなわち、イエスが人の子として御父のもとから来たことや、その御父のもとへ帰ろうとしていることについてである。福音記者ヨハネにとって、十字架上のイエスの死は、イエスの最高のアガぺの行為であり、御父のもとへ移る時である。イエスのことばは信仰の心でしか受け入れることができない。はかない存在(=肉)である人間は、イエスのことばやしるしの深い意味を理解することができない。ここでも、シモン・ペトロの信仰告白はパンのしるしの後におかれている。また群衆や弟子たちの不信仰も強調されている。ペトロはイエスのことばを受け入れ、イエスを‟神の聖者”であると告白する。多くの弟子たちはイエスのもとを離れ去ったが、ペトロはイエスのことばを受け入れ、信じた。そんなペトロの信仰を黙想してみたい。果たして、私はイエスのことばを受け入れ、信じきっているだろうか?
ヨハネによる福音書6章60-69節
2021年8月22日