聖霊降臨後第18主日

幼児洗礼の私にとって、今日の福音の42節以降の「海に投げ込まれてしまう方が・・・」や、「片手になっても・・」「足(を)切り捨ててしまいなさい。目(を)えぐり出しなさい」の箇所はとても怖いお話でした。今回この箇所を何度も読み、心にとめ、思いめぐらしながら生活してみました。そして、ある方との関わりの内に、このみことばを通して慈しみ深いイエスと出会い、また大切な気づきをいただきました。その方は、たくさんの人の手をかりて生活しておられます。そのような中、その方の態度、言動はまわりの人たちに不快な思いを感じさせることが多く、私も苦手な方で、問題を起こさない程度の関わりをしていました。そのうち、ある人はその方と衝突し、ある人は無視するようになりました。私は自分の力ではどうすることもできないことがわかり、イエスに助けを願いました。そして「自分を無にして、私の内に復活されたイエスが働く場所をあけておくこと」に気づき、祈りながらそのように関わるよう努めました。すると、数か月後その方が「あなたといる時が一番落ち着く。あなたが来るのを楽しみにしている」とおっしゃったのです。「以前の『私の手、足、目』はいったい何をしていたのだろう?」と振り返ってみました。「私の手」は、私のやり方を一方的に押し付ける手でした。「私の足」は、私の行きたい方にその方を無理やり連れて行く足でした。「私の目」は、その方の本当の苦しみ、悲しみ、真実の姿を全く見てはいませんでした。イエスは「そんな手、足は切り捨ててしまいなさい。そんな目はえぐり出しなさい」とおっしゃっているのだと気づきました。私を通して働くイエスの手は、その方の傷に触れて癒され、足はその方の横に座り、寄り添い、イエスの目はその方に、慈しみと愛のこもったまなざしを注いでおられたにちがいありません。私たちはイエスとつながっていないとすぐに、「わたしを信じるこれらの小さな者をつまずかせる者」になってしまいます。「今の私は本当にイエスとつながっているのだろうか?」「自己中心の私の手、足、目ではないだろうか?」と、その瞬間、瞬間、識別しながら生きていきたいものです。

マルコによる福音書9章38-43、45、47-48節

2021年9月26日