降臨節前主日

「王」をめぐる対話がつづきます。ピラトはイエスに対して矢継ぎ早に質問を浴びせます。この世の権力者による、「おまえは王なのか」という質問に対して、イエスは何も答えようとはしません。イエスはこの世に所属する者ではないからです。むしろ、この世のなかを治めることだけを目的とした政治権力とは根本的に異なる権威が、イエスの姿をとおして証しされているのです。イエスは常に相手を活かすいのちの源として、この世で活躍しました。
イエスは決して相手を裏切りません。常に相手のしあわせを願って支えるイエスのまごころこそが、この世の権力者とは根本的に異なる救い主の姿なのです。救い主は「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」なのです。愛と解放をもたらす誠実な救い主、イエスとの出会いを大切にすることは、私たちキリスト者の生き方を明確に示しています。ダニエル書で「彼の支配はとこしえに続き」と述べられています。救い主としてのまことの王は、あらゆるものをいつくしみながら支え続けるのです。相手を哀しみの状態から助け出し、決して見棄てることのない力強さをもちあわせた救い主が必ず来る、というメッセージを、ダニエル書はあらゆる人に告げ知らせようと努めています。こうして、今日の朗読箇所を熟読することで、「相手おもいの救い主」の姿がイメージできるようになるのです。「王であるキリストの祭日」という稀有な一日をキリスト者が毎年お祝いしているのは、ひとえにイエス・キリストの力強いいつくしみの姿を忘れないように、確認するためなのではないでしょうか。イエス・キリストほどまでに他者を大切にいつくしむことのできる指導者は、滅多におりません。その稀有な指導者が確かに生き続けているという事実を忘れないためにも、私たちは今日もまた「王であるキリストの祝日」をお祝いする聖餐式に参列するのです。この世で生きている私たちは、目先の権力掌握のために奔走するのではなく、むしろ、あらゆる相手のしあわせを願うような寛大さを少しでも身に着けることができるように、「まことの誠実なる王としての救い主」の姿を心の奥で想い描くことが今日、必要となってきます。

ヨハネによる福音書18章31-37節

2021年11月21日

主日の福音から

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