復活節第7主日
卵とウサギのイースターという春の訪れのイメージが、日本にも浸透しつつある昨今、キリスト教徒がそろそろ梅雨になろうかというこの頃まで、イースターの喜びを密かに味わっていると誰が思うでしょうか。
私たちの礼拝は、立ち止まることなく主の復活を祝っています。繰り返し、繰り返し、イエスが今も私たちと一緒にいる、私たちの中に、私たち一人ひとりの心の中に住まっていると言い聞かせています。四つの「福音(物語)」が、イエスの公生活、受難、復活を語っているように、私たちの生きる「時間」も、公生活、受難、復活を刻み込んでいるのです。
新型コロナ感染症によって過ぎた二年間において、それまで当たり前のように聖餐式に行き、当たり前のように繰り返していた聖餐式がまったく当たり前でなくなってしまいました。実際、聖餐式に随分長い間与っていないという方も少なくないのではないでしょうか。そして、聖餐式に与らずとも、自分の生活自体はなにも変わらない…… 信仰が鮮やかさを失い、古ぼけた聖堂のようになった感じはありませんか。
人のいない聖堂は価値があったとしても色褪せています。イエスのいない私の生活はどうでしょうか。空っぽのくすんだ聖堂となっていませんか。
先週、26日の木曜日は、「昇天日」でした。イエスを天に見送った人々が大喜びで神をほめたたえている様子を眺めてみましょう。この人々はここにイエスがいないのに、イエスがここにいると悟った人々です。この人々の悟りの経験を「天」という言葉を用いて表現しているのはとても重要です。つまり、「イエスの昇天」とは、天と地が一つになったことを意味します。天と地ほど離れている距離感を「昇る」と表現せざるを得ませんが、実にその上昇歓喜は地上に残された人々の内的な救いの喜びだったのです。
今日、聖餐式に与る人々の集いの中に、天と地を結ぶイエスの現存を見せてください。
今日、聖餐式に与れない私自身の中に、天と地を結ぶイエス現存を見せてください。
ヨハネによる福音書17章20-26節
2022年5月29日