聖霊降臨後第2主日

自分の十字架を背負うこと。――イエスは、ただそれだけを要求します。人の十字架を背負うのではなく、まず自分の十字架をしっかりと受け止めて生きることが重要になります。他人におせっかいを焼くのではなく、自分の勤めから逃げるのでもなく、ひたすら自分の果たすべき使命を生きぬくこと。背負いきれない悲しみや痛みはイエスがすべて背負ってくださるのですから、安心してまかせればよいのです。そして、自分のささやかな重荷だけで自分の償いは十分です。イエスは必要以上の重荷をあなたには負わせることがないからです。気楽に誠実に歩むだけでよいのでしょう。イエスをとおして明らかになった神の配慮は、何と寛大なことでしょうか。まさに、人類は、まことに気前のよい神によって支えられています。
ガラテヤ書のメッセージも心にしみます。ただひたすら神に信頼して生きてゆくことだけが大事になります。神に信頼することによって、人は神の子となってゆきます。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」。パウロによって、神の前での平等が説かれています。神にどれだけ信頼してまかせきれるかが、いつも問われています。
ゼカリア書に書き残されているように、主なる神はイスラエルの民に語りかけています。――「あなたがたは、あなたがたが刺し貫いた私を見つめる」。神は否定されて抹殺されたとしても加害者を人間として大切に処遇するだけの親心に満ちています。神の度量の大きさや寛大さは、人間の思惑を軽々と乗り越えていく圧倒的な実力を備えています。
こうして、三つのメッセージに共通していることは、どのような状況のもとであっても、神が私たちを支えていてくださるのですから、肩ひじをはらずに、もっと頼りきればよい、という思いやりに満ちた呼びかけです。そういう貴重な呼びかけを平易な言葉で読むにつけ、ほのかな感動を実感することになります。そして、できれば、そのような悦びの感触を周囲の人びとにも実感していただければ幸いだと考えて、今日もおだやかな笑顔で生きてゆきましょう。

ルカによる福音書9章18-24節

2022年6月19日