聖霊降臨後第10主日

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(ルカ12・49)。――なんだか、あまりにも厳しいイメージをともなう言葉です。しかし、イエスは、決してこの社会に災いをもたらすために来たわけではありません。ここで示されている「火」とは、つまり、「愛の炎」のことです。イエスがもたらした「愛の炎」は、あまりに激しいので、相手の生き方に決断を迫るのです。神を大切にし、人びとに尽くしている人にとっては、イエスがもたらす愛の炎は心地よいあたたかさに満ちたものに感じられます。しかし、神を無視し、人びとを虐げている人にとっては、イエスがもたらす愛の炎は裁きの鉄拳のような差し迫るムチのように痛みを呼びさまします。つまり、誰に対しても同じようにおよぼされているイエスの愛の炎は、相手の心のもちかたによって異なった効果を生み出すのです。イエスとともに生きる者にとっては、心地よさを、イエスに敵対する者にとっては、恐怖の裁きとして重くのしかかるのです。
しかし、炎はあらゆる罪や悪をすべて焼き尽くして清めます。炎は、人がいだいている悪意、かかえている罪を清め尽くして、新たに再出発できるような状況をつくりだします。常に相手をいつくしみのまなざしで眺めていたイエスが、どんな人をも見棄てるはずがありません。たとえ、イエスに敵対している人であっても、必ず、焼き尽くされて後に、新たに生きるチャンスを与えられているのです。「敵をも愛しなさい」と、弟子たちに呼びかけたイエスが、相手を見放すはずはないのです。
このように考えてゆくと、イエスがもたらした愛の炎は、神に従う人に心地よさをもたらすばかりではなく、神に逆らう人にも結局は安堵をもたらすものなのです。もちろん、安堵する前に、悪と罪の要素をまるごと焼き尽くす手厳しい刷新の痛みを身に負う必要があるのですが、ともかく、その試練を耐えぬくのならば、神による寛大な出迎えが実現するのです。

ルカによる福音書12章49-56節

2022年8月14日