聖霊降臨後第11主日

聖書において、「神のはからい」は祝宴としてイメージされています。イエス・キリストは、さまざまな場所をめぐってあらゆる人をいやしながらも、着実にエルサレムの街へと向かっています。つまり、人びとをいやす最後の現場となるのが、エルサレム郊外のゴルゴタの丘の上での十字架の立つ大地なのです。イエス・キリストの死は、あらゆる人に自分のいのちそのものを差し出して与えることによって、相手を活かす出来事となります。それこそが、一番よい食物を相手にふるまう神の祝宴のメインディッシュだからです。それはイザヤ書でも語られているように、神による思いもよらないはからいなのです。イエス・キリストは決して逃げることなく、あらゆる人を救う使命を果たしつづけながら十字架に至ることになるのです。十字架という試練をとおしてこそ、真の祝宴が始まるからです。「神のはからい」の充満する祝宴は十字架の出来事をとおしてこそ、見事なまでのよろこびの宴となるのです。
イエス・キリストは、御父である神からいくども「これこそ私の愛する子である」と評価されていました。それゆえに、イエス・キリストは神との親子関係を土台として、毎日を生きていました。あらゆる出来事を、神のはからいのもとで理解して生きるイエス・キリストの日々は、親としての神のいつくしみ深さに満たされていました。それゆえに、イエス・キリストは自分に敵対するあらゆる反抗勢力に対しても、神の慈愛深い姿勢を告げることで毅然として立ち向かい、決してゆらぐことなく、まっすぐに生きました。あらゆる苦難を乗り越えることができたイエス・キリストのゆるぎない価値観とは、「いかなることが起ころうとも、神のはからいを決して忘れないで前進する」ことでした。それは、まさに、エルサレムへと向かう毅然とした旅の歩みそのものにもつながります。

ルカによる福音書13章22-30節

2022年8月21日