降臨節第1主日
私がこの福音箇所を読んではじめに気になったのは、「二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」というところです。その時の思いは、どうして見た目はなんの変わりもないのに、一人は連れて行かれ、もう一人は残されるの?私はきっと連れて行かれるほうだな、と不安のような居心地の悪さを感じていました。この感じを心のすみに置いたまま、何日かを過ごしました。その間、祈る時、私の心は平安で、仲間との関わりは時には苦しみや葛藤も伴いますが、豊かで、人々や主とのつながりを感じるものでした。
そして、あらためて今日のみ言葉を味わいました。パウロは「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ13:12)「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマ13:14ab)と語っています。私ははじめ、自分の内にある「欲望を満足させようとして、肉に心を用いたこと」、つまり闇の行い、眠っている私にばかり思いがおよんでいて、不安を感じていたことに気がつきました。しかし同時に、私は洗礼によりキリストに結ばれ、キリストを着るものとなりました(ガラテヤ3:26-27参照)。聖餐式に与ってみ言葉を聴き、自分自身を献げ、ご聖体をいただき、キリストと、兄弟姉妹と一致し、派遣されています。確かに「主はわたしたちに道を示される」(イザヤ2:3)を体験しています。「二人の女」は私の内に存在していたのです。
私たちは日常生活の中で静まりの時を持ち、聖霊の導きによって、「今私は眠っているのか、目覚めているのか」識別する必要があります。イザヤ書には「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2:4)とあります。私たちは自分の内にある剣や槍を自らの意志で打ち直し、鋤や鎌とすることができるのです。戦う道具ではなく平和の道具で自分自身をたがやし、光の中を歩む者となる自由意志を持っているのではないでしょうか。
今、この時、静かに自分自身を見つめ、祈り、キリストと結ばれ、光の中を歩む恵みを願います。
マタイによる福音書24章37-44節
2022年11月27日