復活前主日

イエスのご受難の姿は、何をわたしたちに示されているのでしょうか。
人間の目から見たら、あまりにも弱く惨めなものに見えます。着ている物をはぎ取られ、赤い衣を着せられ、茨の冠を被せられて唾を吐きかけられても、為されるままに、何も抵抗なさらず、侮辱されるがままでした。鞭打たれ、最後には強盗たちと一緒に十字架につけられました。神の子なら、自分を救ってみろと、人びとや祭司長たち、さらには一緒に十字架につけられた強盗たちからも、ののしられ、侮辱されても十字架の上で耐え忍ばれたのです。
そのとき、イエスのみ心の中にはどんな想いがあったのでしょう。
体の痛みも、心の痛みも、父なる神とわたしたち人間への大きく深い愛に比べたら、より些細なもの、ただ通り過ぎていくものとして受け止めておられたのかもしれません。
人間としては、耐え難く激しい体と心の痛みであったことでしょう。それにもかかわらず、すべてを受け入れ耐え忍んだのは、それが父なる神のみ心であり、人びとの救いとなることがわかっておられたからでしょう。
イエスのみ心が、どれほどいつくしみ深いものか……それは、わたしたちへの愛のために耐えてくださった苦しみの大きさによって、わたしたちも知ることができます。そのご自分のすべてをささげる無私の愛が、イエスのみ心いっぱいに満ち満ちていたからこそ、神殿の垂れ幕が裂け、より気高く聖なるものが姿をあらわしたように思います。「本当に、この人は神の子だった」と、一部始終を見ていた百人隊長や見張りの人びとが悟ったように。そして、神と人の間を隔てていたものがとり払われ、神へと近づく道が開かれました。
わたしたちもこの聖なる時に、イエスと共に愛をもって十字架の苦しみを担い、永遠の命へと導かれるよう祈りたいと思います。

マタイによる福音書27章1-54節

2023年4月2日

ふぉとペテロ

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