聖霊降臨後第5主日

芥川龍之介の作品の中に『蜘蛛の糸』という小説があります。お釈迦様がある日、散歩の途中で蓮の池から下を覗くと、はるかかなたに地獄の血の池に溺れて苦しんでいる、殺人や放火などの凶悪な大泥棒であった犍陀多(かんだた)を見つけます。お釈迦様は、彼が生前一匹の蜘蛛の命を思いやり、殺さなかったことを思い出し、極楽の蓮の池から一本の蜘蛛の糸を垂らします。犍陀多は、その糸に気づき、それを手にして極楽まで登っていくのですが、その途中でふと下を見ると、彼の後から地獄のたくさんの罪人が糸を掴んで登ってくるのを見てしまいます。彼は、糸が切れるのではないかと恐れて、「こら、罪人ども、この糸は俺のものだ、下りろ、下りろ」と言ったとたん、犍陀多のところからプツンと糸が切れて罪人と一緒に元の血の池地獄に落ちていくという物語です。
今日のみことばの中で、イエスは、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われます。では、「わたしのために命を失う者」とは、いったいどういう人のことでしょうか。それは、「自分の十字架を担う人」のことではないでしょうか。
私たちは、【十字架】を担うことを避けてしまいがちで、できれば楽な方向へ向かう傾きがあります。たとえば、面倒なことを避け、自分が好きなことだけを選んでしまいます。では、十字架を担うというのは、どのようなことでしょうか。それは、人のために時間を割き、耳をかし、奉仕を行うなど、自分のことよりも人のことを思って何かを優先することと言ってもいいでしょう。
パウロは、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」と言っています。これは、イエスが十字架で亡くなったように、洗礼の恵みをいただいた私たちもイエスと一緒に十字架を担うということではないでしょうか。
私たちは、日常の生活の中にある【十字架】に気づき、イエスと一緒に担っていくことができたらいいですね。

マタイによる福音書10章34-42節

2023年7月2日