聖霊降臨後第12主日

今日の福音に登場する、キリストに食い下がるカナン地方の母親の熱意は、すさまじいものです。自分の子どもを悪霊の支配から救い出そうとして、なりふりかまわず必死にキリストに助けを懇願する母親の姿は強烈です。しかし、この母親は、キリストによって信仰者の模範とされています。その母親は「あなたの信仰は立派だ」という、キリストからのほめ言葉を確かに受け取っているからです。そして、母親ばかりか、子どももまた無事に助かります。子どもは母親の努力によって救いにあずかるのです。
私たちは、どうでしょうか。この異邦の土地の母親のように、果たして、なりふりかまわず誰かの救いを目指しているでしょうか。あの母親は、大切な子どもを助けることばかりを考えてキリストに食い下がりました。子どもへの底なしの愛情のゆえに、あきらめない頑固さを母親は備えていました。母親は子どもを想うがゆえに強くなれるものなのです。
キリストは当初、カナン地方の母親を冷たく突き放します。救いには順序があることを理由にして。まずイスラエルの民が神の救いにあずかり、その後で異邦の者たちが神のお情けをいただくことになるという序列は、イスラエルの民にとっての常識的な発想でした。それゆえ、キリストもイスラエルの民の一員として常識的な応えかたを示しました。ところが母親にとってはイスラエルの民の常識などにこだわっている場合ではなく、何としても大切な子どもを救わなければならない状況でした。大切な者への愛情のゆえに、恥も外聞も全部かなぐり捨てて、母親は突っ走ります。キリストは母親の必死の愛情表現に心を打たれます。
私たちも人間的な常識にそって物事を見ることを脱して、必死に大切な者をかばい、救う手だてを求めてキリストと関わることが、いまこそ必要です。大切な人を、冷めたあきらめのうちに死なせるわけにはゆかないからです。信仰は愛情と結びついており、それゆえに希望の新境地を開く迫力に満ちています。

マタイによる福音書15章21-28節

2023年8月20日