聖霊降臨後第16主日
ペトロは自分の立場で物事を眺めているだけで、ペトロは他者の立場まで考えようとはしていません。「自分が」すごく寛大にゆるしを与えるという視点で完結する、狭い世界に閉じこもるペトロ。ペトロによる「七回までですか」という質問は、彼なりに寛大に譲歩した立場を示しています。二千年前のイスラエル社会では「七回」という回数は「すごくたくさん」という意味を備えていました。七回とは、神の祝福が無限に授けられる状態のことでもありました。ペトロはイスラエル社会の生活状況で物事を眺めていましたので、寛大さを生きる場合に「七回」という回数でのゆるしの理解の仕方さえしておけば、神の前で合格できると、かなり自信をもって考えたのです。しかし、キリストは、さらにレベルの高い目標を示しました。キリストはペトロに対して「七の七十倍までもゆるしなさい」と応えているからです。「たくさんよりもさらにたくさんゆるし尽くしなさい」というキリストによる破格の応え方。ペトロにしてみれば、自分はかなり譲歩して寛大さを示したつもりで、自分の気前よさに酔いしれていたところでしたので、キリストから「七の七十倍までも」と言われたときには、かなり面喰ったはずです。通常は、この社会においては、相手が自分に対して迷惑をかけるような罪をなした場合、その一つの罪に対応するかたちで相手に償いを要求して合意に至ればゆるされるわけですが、七回も罪を繰り返された場合でも毎回ゆるしつづけるということは、かなり忍耐力が要求される対応の仕方になります。しかし、キリストは天の御父の気前のよい寛大さをペトロに伝えようとしていました。人間は自分の気が済むまで相手を責め、相手に賠償を要求するものです。言わば人間は「自分」にこだわって正義をふりかざして、相手の状況や心のなかを決して見ようとしません。相手の立場に立つことができないままで自分だけの都合を一方的に押しつける人間の心の狭さは、神の寛大さとは真逆の働きになっています。相手の状況を理解して、相手の立場に沿って協力する寛大さを受け継ぐことがキリスト者の生き方の気高い目標なのです。
マタイによる福音書18章21-35節
2023年9月17日