聖霊降臨後第4主日

神の次元の話題については人間の言葉で適切に語ることは不可能です。それゆえに「たとえ」で物語るしかないのでしょう。神のはたらきは、人間にとっては計り知れない大きさと深さによって実現します。ということは、神のはたらきを人間の言葉で説明し尽くすこともできないのです。
私たちが子どもたちに大人の生活の話題を語るときに、大人の専門用語を用いたとしても子どもには何も伝わりません。それゆえ、私たちは子どもが理解できそうな具体例をかかげて語ることにするわけです。子どもが理解できる範囲の「たとえ」を用いて語れば、子どもはイメージを受け取りやすくなります。
イエス・キリストはイスラエルの民衆に対しては「たとえ」を用いて語りかけます。しかし、イエス・キリストは弟子たちに対しては、ひそかに解説を加えます。弟子たちがイエス・キリストのはたらきを受け継ぐ者たちだからです。イエス・キリストの生き方は弟子たちによって後世に伝えられるわけで、後継者としての弟子たちは常に懇切丁寧な解説を心の底に叩き込んでおぼえてゆかなければならないのです。
「神の国」と呼ばれている「神のおとりしきり」は、いつのまにか発展します。ひそかなかたちで、目立たずに着実に育つ「神による支えと配慮のひろがり」は人間の理解力をはるかに超えています。小さな種が巨木にまで成長するように、私たちのような小さな者たちもまた巨大な影響力をおよぼす信仰者にまで成熟することになるのです。
しかも、エゼキエル書で強調されているように、主である神こそがあらゆる者を成熟させるのであり、神の計画がひそかに進展することが旧約聖書の随所で語られています。そして、第二コリント書でパウロが描くように、私たちが生きるのは神をよろこばせるためであるのです。神のおもいを理解して成熟する人間の姿をまのあたりにするときに、誰もが大いなるよろこびを実感するのです。相手の成長を祝福して支える神の寛大な姿勢に気づかせるために、今日もイエス・キリストはあらゆる人に対して真剣に呼びかけているのです。

マルコによる福音書4章26-34節

2024年6月16日