聖霊降臨後第6主日
「タリタ・クム」。タリタは少女、クムは起きよという意味で「少女よ、起きなさい!」となります。イエスはヤイロの娘にこのように語りかけました。すると、少女はすぐに起き上がって歩き出したと今日の福音は語っています。会堂長ヤイロがイエスのもとに来て、自分の娘を癒してくれとお願いします。イエスやその仲間たちは、すぐに娘のところに赴けばいいはずなのに、今日の福音では読まれませんでしたが、そこに大勢の群衆が押し寄せ、そのどさくさに紛れるようにして登場する出血に苦しむ女性の逸話が挿入されています。イエスに従おうとして押し迫る群衆の放つ激しい熱気と、家族に心配そうに見つめられ、死んだように眠っている少女の静かな寝姿…… この二つの相反する映像が二枚のレイヤーのように重ねられ、わたしたちの脳裏を満たしつつ、なぜか、ひとりの女性、出血に十二年間も苦しんで限界に達し、イエスの服の端に触れてしまった、その女性の青白く細い指に注目するように、わたしたちは招かれます。この福音によって、なんと三つの場面を、同時に、脳裏に、映像として、想像を結ぶように招かれているのです。同時に進行する三つの違う物語が、わたしたちに投げかけられているわけです。
さて、今日、この福音を聴くあなたは誰ですか?
群衆のひとり?この人たちも、ともに行きます。イエスに追い返されはしません。どさくさに紛れてイエスの服に触れる十二年間苦しんできた娘?
娘よ、あなたの信仰があなたを救ったと言われます。それとも、死んだように眠っている少女?
まさに、タリタ・クム!の主人公です。あるいは、あなたはこれらの人びとを見つめている外の人かもしれません。たとえ、これらの出来事について映画を見るように見ている外の人だとしても、おそらく、あなたはどうしてこの登場人物が癒され、救われていくのかを考えざるを得ないでしょう。そうです、この人たちは救いの途上を歩んでいるのです。明けない夜はない。必ず、朝が来る———。今日の福音をもう一度、想像の目をたくましくして味わい直してみましょう。イエスと人びとの関わりの中に、救いへの道、その歩み方が隠されています。
マルコによる福音書5章22-24、35-43節
2024年6月30日