聖霊降臨後第10主日
ヘブライ人への手紙には、「信仰は、望んでいることがらを保証し、 目に見えないものを確信させるものです」と記されています。信仰は、目に見えないものを確信させる。しかし人間は五感に偏って、知ろうとすることが多い。人が、目で見、耳で聞き、手で触れたものなら、それは偽りのないことだと、力をもって証します。今日の福音で弟子たちは 舟にいて暴風と戦っています。夜が明ける頃、水の上を歩くイエスの姿を見て「幽霊」だと叫びます。今まで全く見たことのない現像でしょう。彼らには感覚の証より、自分たちの人生体験の重みに従って判断するようになり、イエスだと言うことを受け入れません。結局彼らは、見ても見えない人となります。イエスは弟子たちの恐怖を知り、「安心しなさい、私だ」と言って、彼らを励まします。ペトロはその声を聞いても、自己体験である恐れから簡単に離れず、信じるための条件を要求します。「私に、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」信仰とは、自分自身の力で得られるものではなく、神からくる恵みです。「見ないで信じるものは幸い」と、イエスはトマスに言うのです。自分の感覚のために信じたというより、神の恵みを頂いて信じるようになりました。と、証することです。ニコデモは、夜イエスに尋ね、合理的に話しはじめます。それにイエスは、「まことに、まことにあなたに告げます。人は新しく生まれなければ神の国を見ることができません」と。今までの人生体験や、集めた知識を通して信仰までたどり着くことではありません。むしろ人は自分自身の思いを脱ぎ捨てるルートをとれば、信じる恵みが与えられることになるでしょう。自分の先入観や、偏見などすべてを越えなければ、エリヤ預言者のように静かにささやく声を知らないでしょう。エリヤは、自分の安全場所、洞穴から出て、外套で肉の目を覆ったとき、神の前にたつことが出来ました。信仰に生きる恵みを望めば、自分の安全場所から離れて、自分の思いなどを優先するよりは、神から招きに耳を傾けましょう。
マルコによる福音書6章45-52節
2024年7月28日