聖霊降臨後第11主日

「子ども食堂」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。何らかの事情により、食事をすることができない子どもたちのために食事を提供する食堂のことです。食事をしてお腹を満たすということは、人が生きるために大切なことです。また、飢えというものは、肉体的にも精神的にも人の成長においていろいろな影響を及ぼしてしまいます。
今日のみことばは、イエスが奇跡を行い5千人もの群衆にパンを食べさせた、という奇跡を行った後の出来事です。イエスは彼らを置いてカファルナウムに戻っていました。それに気がついた群衆は、イエスを追いかけカファルナウムに行きます。そんな彼らに、イエスは「……あなたがたがわたしを捜したのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。……」と群衆に言われます。これからイエスと群衆の問答が始まります。
しかし、彼らとイエスとの会話は、何となくピントが合わず、噛み合っていません。イエスは、常に【しるし】の奥にあるおん父の業について話していますが、彼らは、もっと身近な自分たちが飢えることがない、満腹な状態を保つためという【自分たちのエゴ】から抜け出すことができないでいます。彼らは、イエスに「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いますが、それさえもやはり自分の【エゴ】に執着しているのです。
同じように、サマリアの女とイエスとの会話の中にも「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(ヨハネ4:15)とあります。最初は彼女も自分のためのようでしたが、イエスと会話を続ける中で変えられ、他の人々をイエスのもとに連れて来るという【使徒】の役割を果たします。
私たちは、イエスこそが私たちを満たしてくださることを知っています。私たちは、み言葉とキリストの体によって養われ、その満たされた心を周りの人に分け与えるという使命をいただいています。私たちは、肉体的な【飢え】ではなく、心の【飢え】で苦しむ人に、「イエスという命のパンを」与え、【イエスで満たす】ことができたらいいですね。

ヨハネによる福音書6章24-35節

2024年8月4日