聖霊降臨後第14主日
四福音書はいずれも、パンのしるしの出来事を記述し、このような状況でのイエスの宣教活動の危機を暗示する。空腹の人々に食べ物を与え、また、食事の交わりを通して人々と分かち合うことは、イエスの行動の著しい特徴として鮮明に記憶され、伝えられたのであろう。イエスのことばや行動による何かが、人々や弟子たちの間に非常に熱狂的な反応を巻き起こしたことは間違いない。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った(ヨハネ6:14)。」イエス自身はこのしるしのために、人々が自分を誤解していると感じ取り、彼らの自分に対するメシア的な期待には応えられないことを悟ったのである。6章全体の一つの主題は、「イエスは命のパンの与え主」である。このテーマに関する、イエスと群衆・ユダヤ人・弟子たちとの対話によってイエスが何者であるか、またイエスの使命が何であるかが明らかにされていく。6章後半では、神が与えられるパンはイエスご自身であること、つまりイエスが命のパンそのものであると、ことばが飛躍していく。今日の福音では、「わたしは天から降って来た生きたパンである(ヨハネ6:51)」というイエスのことばを聞いて弟子たちのつぶやきが始まる。イエスが、人の子として御父のもとから来たことや、その御父のもとへ帰ろうとしていることについての疑いである。著者ヨハネにとって、十字架上のイエスの死は “ほろび” の時ではなく、イエスの最高のアガペの行為であり、御父のもとへ移る時である。イエスのことばは信仰の心でしか受け入れることができない。はかない存在(=肉)である人間は、イエスのことばやしるしの深い意味を理解することができない。イエスのことばを受け入れて、イエスの霊を信じる時に、私たちはイエスの霊的真理に導かれる。イエスを信じることは御父からの贈り物である。ペトロはイエスのことばを受け入れ、イエスを“神の聖者” であると告白する。
多くの弟子たちはイエスのもとを離れ去ったが、ペトロはイエスのことばを受け入れ、信じた。そんなペトロの信仰を黙想してみたい。私は、イエスのことばを受け入れ、信じきっているだろうか?
ヨハネによる福音書6章60-69節
2024年8月25日