聖霊降臨後第18主日

イエスはご自分の受難と死、復活を再び弟子たちに話されます。そのあと「誰がいちばん偉いか」を議論する弟子たち。イエスの孤独、悲しみが伝わってきます。それにもかかわらず、弟子たちをイエスはご自分の場所に呼び寄せられます。そこにはすでに、自己中心的で、無力で弱い弟子たちを受け入れ、慈しみを注がれる「すべての人に仕える」イエスの姿が在ると感じます。「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」という場面を心の目で眺め祈ってみました。弟子たちの真ん中で、イエスが無力で弱い立場に置かれた人々の象徴とされる子供を、天の御父に向かって高く抱き上げる姿が見えました。そのイエスを見つめていると、「この方は神の独り子でありながら、みじめな十字架の死を受け入れられたのだ」「この方こそ、最も無力で弱い立場に置かれた方なのだ」という思いがわきあがってきました。しかし自分の姿を振り返ってみると、そのような「子供」とは、ほど遠い自分がいました。自分の力に頼り、自分の考えを中心に世間を見て不満や批判を繰り返す私。身体が悲しみでいっぱいになりました。しばらくこの感覚から逃げることなく、静かにとどまってみました。すると、「神様に頼るしかない」「聖霊の恵みを願おう」という光が見えてきました。そのあと「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」というみ言葉を味わってみると、私 の外側に「子供」を探すのではなく、まず私自身の内に「子供」を育てることが先ではないか、という気づきがありました。それは、まず自分の傲慢さ、罪深さに気づき回心すること。そして、神の愛に信頼して無力さ、弱さを受け入れ生きること。そこに父と子と聖霊は来てくださるのだ、ということです。無力で弱い私たちが、父と子と聖霊と共に働くとき、「すべての人に仕える者」になれるのかもしれない、という希望がわいてきました。

マルコによる福音書9章30-37節

2024年9月22日

ともしびから

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