聖霊降臨後第19主日
「最近、沈黙するのがむずかしい」。
日中、起きている時、「視聴覚」とはよく言ったもので、「視る」「聴く」で「覚醒」している状態。ほとんどが「視聴」の時間で、「見ざる、聴かざる、言わざる」の時間がないのです。
こんな日中の中で、何も見ない、何も聴かないという時間の中に入る、つまり、「沈黙」の中に入ると、時折、恐怖にも似た特殊な感覚を覚えます。寄りかかる柱や、背もたれ、壁のようなものが何もなくなってしまった状態です。「20秒、目を閉じましょう」と言って、呼吸に注目する——。現代人はそのくらいの「時間とも言えない一瞬」でさえも、沈黙が難しくなってしまっているわけですから、かなりの危機と言えます。30分、沈黙の中に入ってみましょう。失うものはなにもないのです。
安心して、神のみ手の沈黙に。
今日の福音では、「つまずかせる者」について語られています。「わたしを信じるこれらの小さな者」、この人たちをつまずかせてはならないと、イエスは弟子たちを諭すのです。わたしたちは実にこの微妙な人間関係の中に置かれています。
弟子たちは悪気がないのです。むしろ、彼らの正義感から、「イエスの名前を使って悪霊を追い出している者」たちを糾弾します。「むやみやたらに聖なるみ名を用いるべきではない、新参者が!」とでも言いたいのでしょう。しかし、イエスからすれば、弟子たちの主張するその正義感は、「小さな者」をつまずかせることになります。そして、そのような人びとをつまずかせるくらいなら、「一つの目になっても神の国に入る方がよい」とまで言われます。
自分の正義が相手をつまずかせる——。もし、そうであるなら、「大きな石臼に首を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。この境地に至るためには、自分の正義に対して、徹底的に距離を取る必要があります。自分の主張、自分の理想、自分の意見、自分の判断、自分の正しさ…… あらゆる自分の中心性から、解放される必要があるのです。
沈黙が難しい、などと言っている状態では、イエスの諭しなど到底わからないでしょう。
マルコによる福音書9章38-43、45、47-48節
2024年9月29日