顕現後第6主日

イエスは、集まってきたあらゆる人びとを前にして「祝福あれ!」と繰り返し叫びます。つまり、祝福されるべき者の姿の諸特徴を順に挙げてゆくイエスは、神からの祝福を得る条件を簡潔にまとめて人びとに示したのです。神は常に、あらゆる苦難のまっただなかでもがく人びとをあますところなく祝福しようと望んでおり、その神の望みを人びとに伝える神の子イエスもまた、あらゆる相手を祝福せずにはいられないのです。しかも、あらゆる者たちの最前列に立っていた弟子たちを丁寧にながめつつ、イエスは語りつづけたのです。自分の後継者としての弟子たちに対するイエスのまなざしは、底抜けにあたたかいのでしょう。すでに、この地上で報いを受けて富んでいる者たちは自己満足や自己陶酔におぼれており、神や隣人を見失い、ただ自分の利益を守ることだけにきゅうきゅうとするだけです。そのような自己保身にこだわる人びとは、すでに自滅しています。神の祝福から、ほど遠いところに留まっているだけだからです。しかし、この地上で虐げられて、もがきつづけている者は、もはや自力ではいかんともできずに、ただひたすら神に頼るしか生きる手立てはないのです。「祝福あれ!」というイエスの呼びかけは、たいていの日本語訳の際には「あなたがたは幸いである」とされています。「幸いである」という言葉は、新約聖書のギリシア語原文では「マカリオイ」です。その言葉は旧約聖書のなかの詩編では「アシュレー」というヘブライ語であり、「祝福がありますように」という神からの圧倒的な愛の呼びかけです。それゆえに、旧約聖書と新約聖書とを結び合わせて理解する場合には、やはり「祝福あれ!」と訳したほうが適切です。
イエスは、常に相手の窮状を理解して、相手の悲惨な奴隷状態を終わらせるべく脱出の道を備えます。過ぎ越しの歩みが始まるのです。いにしえの時代のモーセが、イスラエルの仲間たちをエジプトの圧政から解放させるべく脱出の旅を呼びかけたように、新しい時代のイエスもまた今日、私たちを悪の圧迫から解放させるべく過ぎ越しの歩みを示しているのです。そして私たちも、相手を祝福する神の慈愛を受け継ぐ弟子なのです。

ルカによる福音書6章17-26節

2025年2月16日

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