降臨節前主日

今日の福音を繰り返し読んでいると、真ん中にイエスの十字架、その右と左に犯罪人の十字架という光景が観えてきました。さらに、イエスを真ん中にした左右の世界が、全く違うことにもひきつけられました。犯罪人の一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と、イエスをののしります。この人は自分の考え、欲望だけをイエスにぶつけます。そこは攻撃的で騒がしい世界に観えます。もう一人の方は、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない」と言います。この人は、神を畏れ、自分の内側を見つめ、罪深さを認め、回心し、今の苦しみを受け入れています。また、私にはこの人が、自分の罪からの苦しみとは違い「何も悪いことはしていない」イエスの苦しみに、心を痛めているように感じます。
こう言った後、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、イエスに自分の望みを伝え、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という救いのことばをいただきます。そこは共に苦しみの中にありながらも、静かで平安な世界が広がっているように観えます。この人は十字架上のイエスの横にいて、どのような体験をし、変容していったのでしょうか。 わたしたち一人一人の中には、十字架につけられたイエスを真ん中にして、この全く違う心の世界があるのではないでしょうか。日常生活の中で、自分の、また隣人の苦しみを感じ、心が痛むときに、神でありながら沈黙のうちに苦しまれるイエスを観つめると、何か新しい気づきがいただけるのではないでしょうか。

ルカによる福音書23章35-43節

2025年11月23日