大斎節第1主日
福音書に記されている誘惑物語は、洗礼によって聖霊に満たされたイエスが、彼のアッバである神の愛する子としての自己理解と召命を、いかに厳しく試みられたかを伝えようとしている。誘惑物語には旧約のイスラエルの誘惑物語と共通するいくつかの要素がある。三つの誘惑へのイエスの答えから読む時には、祈りへのヒントが多い。マタイとルカは誘惑に対するイエスの答えとして旧約聖書のなかの申命記のことばを引用している。「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」ここでイエスは聖霊に導かれて、自分の利益のために奇跡としるしの道を歩むことを拒む。 彼は “パンだけ” の道を拒否して、子として神のことばに聴き従う道、また、無力な奉仕の道を選ぶ。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」 神の現存のシンボルである神殿の、もっとも高いところに立たされたイエスは、 再び自分の利益のために宗教を悪用することやサタンによって聖書が悪用されることを拒否する。 すなわち、 神がともにいて、 自分を救いに来てくださるかどうか試みることを拒み、また、子として父なる神から自分の独立を試すことや、魔力的な宗教的しるしを行うことを退ける。彼はここでも、神のことばに従うことと、 仕える道を選んだ。「退け、サタン、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」最後の誘惑では、一瞬のうちに高い山に引き上げられたイエスが、権力による神の国の実現を拒否する。 彼はこの世での支配力と繁栄の道を拒み、 政治的な権力を拒否し、たとえ神の国を実現することであっても、世俗的人望を集めようとはしなかった。 イエスにとって神だけが絶対なる主であり、ここでも仕える者としての選びを再確認している。
マタイ福音書における誘惑物語の最終的な狙いは、イエスを、荒れ野で誘惑に負けた旧約のイスラエルとは違って、新しいイスラエルの本物のリーダーであるのを示唆することである。イエスは神の霊に満たされて荒れ野へ導かれ、誘惑に打ち勝っている。 いい換えれば、彼は自分の洗礼の召命と使命に忠実に生きたのである。
マタイによる福音書4章1-11節
2026年2月22日

