復活前主日
聖週間がはじまる。今年の大斎節の自分自身の過ごし方を振り返り、今日からはじまる一週間は過ごしてきた大斎節の集大成であると心に決めよう。「死」という、回避することのできない局面にむかう一週間。それはまさに自分自身の一生が、さあ、いよいよ終わるのだと意識する最期の時にも似ているのではないだろうか。意識がはっきりしていて、だんだんと死にむかう一日、一日。あまり想像したくはないが、それは、誰にでも来る。
人は誰でも皆、それぞれが死にむかっているが、そのむかい方は明らかに、皆、ひとりで行くという共通点がある。さっき、今日の福音を、イエスもまさに、ひとりっきりで死へとむかっていったことが分かる。登場人物はたくさんいて、そのひとりひとりはいろんなことを言ったり、いろんな態度をとったりする。しかし、イエスは、ひとり、何を考えていたのだろうか、沈黙している。総督ピラトは、祭りの機会を利用し、囚人を釈放することにした。その名は、バラバ・イエス。群衆の役で「バラバを!(解放せよ)」、「(イエスを)十字架につけろ」と叫ぶ、「バラバ」の名の由来を調べてみた。二つの説があり、一つはbar-abba(父の息子)、もう一つはbar-rabban(先生の子)。もし、一つめの説明を取るなら、バラバ・イエスは、「父の息子・イエス」となる。意味では、囚人もイエスも同じような名前だったのだ。それはそうだ、誰もが、父の息子であり、父の娘なのだ。人間、だれひとりとして例外はない。例外なく、いつか死ぬし、例外なく、父の子なのである。問題は、総督ピラトであり、群衆であり、長老、祭司長である。この人たちの態度はあまりにも死から遠く、別の世界にいる。いや、「死」どころか、「生」からも遠いのではないか。人は死にむかうが死んではいない。生きているこの間に、語ってくれと問いかけることはできるだろう。イエスは何も答えず、黙っていた。だとしたら、黙っているこの人の沈黙の中に、わたしも入っていくことができるだろう。やはり、大斎節をどう過ごしてきたか?ということだけでも振り返りたい。いつか、自分の生涯全部を振り返り沈黙の時間を生きる、その練習として。
マタイによる福音書27章1-54節
2026年3月29日

