「聖霊と息」

私が小学生の低学年の頃、父親(司祭)から大変怒られたことがあります。半世紀を過ぎた今になっても鮮明に憶えています。それは、ある主日、サーバーをしていて、ローソクの灯りを「フー」と息で消したからです。そういえば、ある方と話している時に同じようなことを聞いた覚えがあります。「お葬式の際、線香を消すとき、息を吹きかけるな」と注意されたと言います。このような習慣はどこからきたのでしょうか。
いろいろと調べてみました。すると仏教と関連があるようです。「人間の口はとかく悪業を積みやすく、けがれやすいものなので、仏さまに備える灯を消すには向かない」という理由からのようでした。吹き消すしぐさは、日本の慣習に合わないのかもしれません。
これとは対照的に、イエスは霊を送る際に、「息を吹きかけて」います。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。~(ヨハネ20:22)。この場合、息を吹きかける動作にはいったいどんなイメージが込められているのでしょうか。例えば、人間の創造の場面です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:6)。神が息を吹き入れられることで人は生を得ていきます。「聖霊」と「息」と「生き」とが深いかかわりをもっていることがお分かりだと思います。
同様に、イエスが「息をふきかける」のは、ヨハネでは「聖霊を受けなさい」と関連があり、そこにはイエスが新しい命を与えるのに共通した内容を見出すことができます。「息」は「生き」と関係しているようです。
さらに聖餐式において、司祭は感謝聖別祷の中で、エピクレーシス(聖霊を求める祈り)を唱え、聖霊によってパンとぶどう酒が「み子の尊い体と血にしてください」、「新たにしてください」、「主の愛によって生かしてください」、「み名をあがめさせてください」。これらの祈りにより、教会は神の力を願い求め、人びとの献げものが聖なるものとなり、それをいただいた人にとって救いとなるように祈ります。
特別な機会だけでなく、日常の出来事の中でイエスは息を吹きかけて「聖霊」を与えてくださっています。
私たちは、普段の生活の中で気づかないうちに聖霊が与えられていることを深く感謝し、思い巡らしてみたいものです。

「喜べ み民よ  この日を祝おう  聖なる息吹に  つつまれる時を」(日本聖公会 聖歌集第198番1節)

2023年9月17日発行
西宮聖ペテロ教会 教報ともしび 第179号