復活前主日

「人となられた神」は、極刑による死を引き受けることで、私たち人間への愛と、ご自分を世に送られた父である神への愛を示されました。その無残な死は、父である神がその犠牲を望まれたという意味では決してなく、当時のユダヤ社会で神の愛を100%生きようとするならば避けることのできない結末だったのだと思います。
イエスは、時の権力者たちに疎まれて、御自分の死が現実的なものになって迫って来ても、その生き方を変えることはなさいませんでした。今日の福音が伝えるイエスは、最愛の弟子たちからも見捨てられてただ一人理不尽な裁きの暗黒の波に飲まれる運命を、粛々と受け入れているように見えます。何ものにも阻まれることなく、最後までひとすじに神の愛を貫くイエス。死の直前の「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の叫びも、神から心を離すことなく、最後の力を振り絞って、神に向かって放たれます。それは彼が慣れ親しんでいたはずの詩篇22の冒頭の句であり、希望と感謝の結末を視野に入れたものだという解釈は、後世の人間の安直な気休めだという反対があるとしても、説得力があると感じます。そこに見えるのは、苦しみと絶望の真っただ中で、なお、神の救いに向けて萎えた心を上げようとしている究極の信仰者の姿です。そして、父である神が、その信仰に対して復活という応えを与えて下さったのは、私たちに伝えられている通りです。それによって、イエス以降、たとえどんなに無残な死でも、単なる「一貫の終り」ではなく、すべての死が永遠のいのちへの「通過点」となったのです。そのことを知り、信じている私たちは、陰惨な十字架像に、父と子の神の限りのない愛を見るのです。
イエスの十字架をめぐる騒ぎと、昨今のいくつかの国の民主化をめぐる騒動の映像が重なります。十字架で死に、復活された主が、愛と正義のために立ち上がる人々と共にいてくださるよう、また、私たちが、それぞれの置かれた場で、ひるむことなく正しいことを貫くことが出来るよう、改めて心から願いたいと思います。

マルコによる福音書15章1-39節

2021年3月28日