大斎節第5主日

ひとつぶの麦が死ねば、多くの実を結ぶ。相手にすべてを与えることで、相手を活かすことができます。愛ゆえのいのちの献げ尽くしの姿。イエス・キリストは御父からつかわされた者として、相手を活かすことに集中しています。御父の望みが、愛ゆえのいのちの捧げ尽くしだからです。歴史上の数多くの殉教者たちは、まさに一粒の麦として地域に埋もれ、新たな芽が生ずるための土壌となりました。古代から現代に至る歴史の流れのなかで、殉教者たちは、キリストの死をまねていました。相手を活かすという目的のために自分のいのちを献げたのです。ということは、キリストにならう究極的な姿が殉教であったわけです。「相手を活かす」ことに殉教の眼目があることになります。相手に対する愛のゆえに、自分のいのちを献げ尽くしても決して悔いはないという熱烈な想いを、私たちも受け継ぐことができればよいかとおもいます。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。神としての自分の身分にこだわらずに、相手のほうへと出向いてゆく謙虚さ、つまりへりくだりの姿勢がキリストの特長です。初代教会の信仰共同体の信仰生活においてはキリストのへりくだりが重視されており、その重点の置きかたヨハネ福音書における一粒の種の話題とも共通性があることが結論づけられます。こうして見てくると、神は御子をとおして全世界のあらゆる人を愛そうとして前進されるのです。神は相手の悪をゆるします。神は相手に対して常に再出発のチャンスを約束してくれます。相手の落ち度や悪意さえもつつみこんで、回心するきっかけを与える神の寛大さそのものが神の姿を示しています。寛大な心で相手を抱擁する神が確かにおられるというメッセージを告げたのが預言者エレミヤでした。殉教者たちが、迫害者たちに対しても神の寛大な慈愛を告げ知らせようとして自分のいのちを差し出したことは、身をもって神の愛をあかしする姿でした。殉教とあかしとは欧米の言語では同じ一つの言葉ですが、それはまさに古代から現代に至るまでのあらゆる時代の殉教者が神の愛のあかしびとでもあることを如実に示しています。

ヨハネによる福音書12章20-33節

2021年3月21日

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