大斎節第3主日

いちじくの木のたとえを出すことで、イエスは現実の厳しさを人々につたえます。農業従事者は実を収穫して市場で売らねば生きてはゆけません。そうなると実りをもたらさない木は切り倒されて、実を結ぶ木に植え替えられます。市場に関わる農家の人たちは非常に厳しい現実のなかで生きているのです。私たちの人生もまた厳しさのなかで妥協することなく前向きに、実りをもたらすべく進んでゆきます。実りをもたらさないままで、あんのんと生きてゆくわけにはいかないのです。私たちは生き方を改めます。変わることが急務です。人びとは災難のなかで、うろたえ、あの人たちは、なぜ死んでいったのだろうかと問いつづけました。しかし、イエスは自分を度外視してうろたえるだけの人びとに自覚をもって本気で生きるように、実りをもたらす生き方を深めるように強く勧めたのです。本気で自分自身の歩みを生きないかぎり、人は何も生み出すことができません。しかも、自分で自分の人生に責任をもたないかぎり、何も始まりません。うろたえるのではなく、いまを本気で生きることの尊さを、イエスは人びとに想い出させるのです。
洗礼を受けて前に進むことは、自分で覚悟を決めて責任をもって人生を本気で生きることに他なりません。イエス・キリストと一緒に本気で毎日を丁寧に生きることで、常に周囲の人びとを支えて奉仕してゆく生き方を究めることがキリスト者の特長なのです。モーセの前に姿を現わした神は「わたしはここにいるから、いるんだよ」と激しく叫びます。「私がここにいるから、それでじゅうぶんではないか」、という呼びかけが神の応えです。人びとは神の名前を知ろうとして、好奇心をかきたてているだけですが、神は本気で人びとのそばにいつづけているわけで、神の「相手に対する本気の付き合い方」をモーセは圧倒的なかたちで学びました。愛をこめて相手を支えつづける神がここにいるからいる、という現実こそが重要なのです。いるからいる。理由なく、いま一緒に生きている、ともにそばにいてあなたを支えているという事実こそが最も尊いことなのであり、神の圧倒的な臨在なのです。その感触を味わってきることが信仰者の極意なのです。

ルカによる福音書13章1-9節

2022年3月20日

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