大斎節第4主日

「放蕩息子」のたとえ話です。改めてじっくり読んでみました。すると、父親はこの弟「放蕩息子」に直接言葉をかけていないということに気が付きました。私たちは、黙想や祈りの同伴の中で、「イエスと対話してみましょう」と促されることがあります。そんな時、やはりイエスは直接私たちに話かけてはくれません。私たちは、祈りや出来事の中でどうイエスに語りかけ、イエスのみ心を受け取ればよいのでしょうか。私の内におられるイエスと「対話」してみました。
弟は「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言います。「イエス様、なぜあなたは、何も言わず私たちの無礼な言い分を受け入れるのですか?」。
そして弟は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまいます。「イエス様、なぜあなたから頂いた恵みを自分の欲望を満たすための道具に換え、無駄使いしてしまい、神の国から遠ざかってしまう私たちに対して、沈黙されるのですか?」。
こう話すと、私の心に「わたしが来たのは、正しい人」を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(ルカ5・32)」というみ言葉が返ってきました。
何もかも使い果たし、皆からさげすまれる豚飼いになった弟。「イエス様、心身の貧しさ、蔑み、辱めにはどんな意味があるのですか?」イエスは私に語られます。「そこに、回心への恵み、私につながる道があります」と。
そして「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて……」を読んだとき、「全ては神のみ手の中で進められた出来事」という気づきがありました。
時に神から離れていく私ですが、放蕩の限りを尽くしているその時も、神の慈しみは常に注がれているのだと感じ、神に感謝いたします。

ルカによる福音書15章11-32節

2022年3月27日

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