降臨節前主日

私は、なぜかこのみ言葉を読んですぐ、「善いサマリア人」(ルカ10:25-37)の中の二つのみ言葉が心に浮かんできました。一つはある律法の専門家の「わたしの隣人とはだれですか(29節)」、もう一つはイエスの「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか(36節)」という問いです。数日間、この二つの問いと、羊と山羊について思い巡らし、祈ってみました。
すると、ある律法の専門家の「私の隣人」という姿勢は、左側にいる人たちの「いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」という現実に、つながる感じがしてきました。「私の」という場所は、私の価値観、私の考え、私の都合、私の好み等が優先され、「最も小さい者の一人」を見失う「私」になってしまうのではないか。そのとき、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」とイエスが言われるように、神から離れることになってしまうのではないか、と気づいたのです。
右側にいる人たちは、イエスのように「追いはぎにあった人」つまり「最も小さい者の一人」を真ん中にし、ただ心の奥からこみあげてくる憐れみの感覚に動かされ、自分を無にして最も小さい者の一人に近寄り、自分にできる全てのことを行ったのだと思います。そして神から「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と認められて永遠の命を受けます。
羊と山羊は、昼間は一緒に放牧されていたそうです。今を生きる私たちの心の中にも、羊と山羊は一緒に住んでいるのではないでしょうか。毎日の祈りのとき、深い静まりの中で自分の内を見つめ、自己中心の「私」から離れた私を探してみましょう。その場所は、神とつながる場所であり、神の憐れみが私の内に流れこむ場所なのではないでしょうか。

マタイによる福音書25章31-46節

2023年11月26日

主日の福音から

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