聖霊降臨後第8主日
相手を「見て……深く憐れむ」イエス。しかし、私たちの場合は、相手を「見ないで、たいして何も感じないままで通り過ぎる」ことが多いのかもしれません。
そうなると、まず、相手に目を向けて、相手の気持ちを察してから、自分の身で相手の痛みを感じようと意識的に努力することが、私たちにとっては何よりも必要になるのかもしれません。
イエスは弟子たちを休ませようとします。弟子たちが疲れやすく、他者に対しても大して興味をもとうともせずに、イエスから後押しされるから仕方なく人助けを事務的にこなしているだけだからです。
しかし、イエス自身は相手を見て助けることに対して、何らの疲れも感じません。
むしろ、イエスは四六時中奔走したとしても決して疲れたりはしません。イエスにとっては、打ちひしがれて弱っている相手の苦悩を黙って見過ごすことができないからです。
どうしても助けたくて助けたくてたまらないのです。みなさんも自分の大切な人を助ける際に、どのような苦労もものともせずに、すべてのエネルギーをつぎこむことができるはずでしょう。大切な人を最優先するわけです。関わりの深い相手のことをおもえばおもうほど、すぐに何とかしたくてたまらなくなるものです。
ところが、弟子たちは相手を大切におもっていませんでしたので、相手のためにいのちをかけるだけの熱意がなかったのでしょう。
事務的に仕方なく奉仕するだけの弟子たちは意欲がなく、熱意をもたず、ただイエスから言われたままに仕事を手伝うに過ぎず、自発的に生きていないので、ただひたすら疲れるだけの人生を送っていました。そこで、イエスは大切な弟子たちの姿を観るにつけて、休ませるべきだと察したのです。
マルコによる福音書6章30-44節
2021年7月18日