聖霊降臨後第20主日

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスはこのたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」
ファリサイ派の人は、律法を守ること、特に安息日や断食、施しを大切にし、宗教的な清めを強調したグループのメンバーであった。彼は律法が要求する義務を十分過ぎるほど完全に果たしていると自認しており、当時の一般のユダヤ人からは尊敬されていた。この人は祈りの中で、自分のことを他の人のような悪いことをせず、律法に定められている通りの良いことを行っていると自慢している。
ファリサイ派の人は決して嘘をついているのではない。でも、彼には相手がいない。自分に話している。自分を受け入れてくれる人、待ってくれる人を相手にしていない。祈りは自分の自己満足、自己弁明、ひとりごとになってはならない。この人は、神に向かって祈っていると思っているが、そうではない。 隣の人を軽蔑しながら、神と関わろうとしている。イエスにとって、こういう祈りはまったく意味がない。
もう一人は徴税人で、ローマ政府から税金の取立てを委託され、異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく、割り当てられた税額以上の金を取り立てて私腹をこやすという理由で、ユダヤ人から憎まれ、罪人と同様に見なされていた。彼は自分が罪人であることを謙虚に認め、神の憐れみによってのみ義とされる、と告白している。
このたとえ話は私たちに祈りの姿勢を教える。イエスは、「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われた。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエス はこのたとえを通して言われる。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
イエスは山上の説教で、弟子たちに言われる。「人のロは、心からあふれ出ることを語るのである。(ルカ6:45参照)」 祈りの姿勢の原点は人の心と生き方にある。

ルカによる福音書18章9-14節

2022年10月23日