復活節第4主日
今日の福音箇所では、ファリサイ派の人たちの失態が述べられています。イエスは、情景を思い浮かべれば誰にでも理解できるような話をしますが、ファリサイ派の人たちはまったく想像力に欠けており「何のことか分からなかった」のです。
当時も、牧畜が行われていたのです。ここでは羊の話です。家畜ですから、人間が羊を、おそらく何匹も、飼っているわけです。羊が逃げないように囲いの門があります。門を開けたり閉めたりできるのは人間です。しかも、羊の主人、飼い主です。羊は門を開けたり閉めたりする飼い主である羊飼いを本能的に知っており、その羊飼いに従って生きています。イエスは、羊と羊飼い、そこに門を通らないでやってくる盗人の話をしますが、この話を介して言いたいことは、羊が本能的に自らの従うべき人を知っているということです。ファリサイ派の人たちは、この話を羊や羊飼いのこととしてしか考えませんから、その奥に潜むものの道理を理解するということができないのです。
想像力という、人に備わった驚くべき能力があります。話を聞いたら、聞いた人が頭の中、あるいは腹の底、心の内で情景を映像化するという能力です。福音書の中に記されたイエスの語るいろんなたとえ話を聞いて、想像力を用い、その情景が思い描けるか——。その情景を自分ごとに置き換えて、自分の生活の中に意味あるものとして落とし込んでいけるか——。それが問題なのです。聞いた者たちがそこまで内的作業をしてはじめて、道理を見出すはじめの一歩の準備が整います。そこからは、語った相手と一緒に、語られた話の精査が必要となってきます。イエス・キリストといえども、対話の相手です。彼と一緒に考えればよいのです。特に、彼の死ののち、2000年以上も経った今では。あらゆる要素とともに一緒に考察せねばなりません。
羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため。
脳裏に描かれた話の情景の中に、あなたはいますか?あなたはどう感じていますか?
ヨハネによる福音書10章1-10節
2023年4月30日