復活節第7主日

「しかし、疑う者もいた。」(マタイ27:17)強烈な文章です。イエス・キリストから選ばれた弟子たちのなかに疑い深い者たちがいたわけです。あらゆる悪意によってさえも決して押しつぶされることなく、生きつづけて相手を励ます復活の主イエス・キリストの力強いいのちの迫力を実感しながらも、それでも疑う者がいたのです。
そして、今日の私たちもまた、毎年、主イエス・キリストの愛情深い寛大さを御復活の祝いの礼拝をとおして繰り返し追体験しているにもかかわらず、やはり疑うことがあります。イエスの復活の出来事を疑うばかりか、イエスが私たちとともにいてくださることにも疑いを差しはさもうとする場合さえあるからです。
疑いをもつ者は、相手が目の前にいたとしても疑うわけです。信頼感がゆらいでいるというか、信じようとする気持ちをゆがめてしまっているというか、私たちにはどうにもできない割り切れなさが心の底に残っているのでしょう。つまり、心のゆらぎとゆがみと割り切れなさは自力では解決できない現実なのです。
「しかし、疑う者もいた」という一文を明確に記録してくれたマタイ福音書の編集者たちによる人間の心に対する繊細な洞察力には、まったく脱帽させられます。
主イエス・キリストとの信頼関係を築き上げて保ちつづけることの大変さを明らかに教えてくれるマタイ福音書の記述のおかげで、私たちは自分たちの心のゆらぎとゆがみと割り切れなさを再確認させられ、過去の弟子たちと現在の弟子たちとしての私たちとの共通性にも気づかされるのです。
過去のあの弟子たちは、後に力強い宣教者としてキリストの現存を確かにゆるぎない姿勢で理解して殉教するまで突き進みました。疑いを差しはさんだあの弟子たちでさえ、力強い信仰の立場をあかしすることになったのならば、同じ境遇で生きている私たちもまた力強い信仰の立場を身におぼえて、身を挺してあかしをする覚悟の日々を突き進むことができるはずだからです。「主の昇天」を祝うということは、疑い深い弟子たちに後のことをすべて託して安心しているイエス・キリストの寛大な姿勢、相手にまかせきる度量の大きさに感謝することです。私たちの疑いよりも、主イエス・キリストによる私たちへの寛大な信頼のほうがはるかに確実な現実なのです。

ヨハネによる福音書17章1-11節

2023年5月21日

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