聖霊降臨後第22主日
ファリサイ派の人びとが集まったという事実に注目するならば、彼らにも学ぶべき点はあるような気がします。わたしたちは果たしてファリサイ派の人びとのように自分たちの危機に対峙し、まずは一緒に集まろうというエネルギーをもっているでしょうか。彼らは、自分たちがイエスから批判にさらされていることを分かって、どうであれ集まって議論します。ユダヤ教の伝統に脈々と流れる徹底討論の伝統を実行しているのです。もちろん、イエスも逃げません。質問されたら、真っ向から答えます。
しかし、律法の専門家が思わず先走り、墓穴を掘ってしまいます。
「どの掟が最も重要でしょうか。」
これは専門家ならぬ質問です。専門家としては失格です。ふつう本当の専門家であれば、こんなへぼな質問はしません。一生かけて自分で探究することこそが専門家の仕事なのに、最も大事な問いを放り投げてしまっています。ファリサイ派の人びとがせっかく議論のために集まったというのに、残念なことにこの専門家は早まってしまいました。
このようにみていくと、イエスが導き出した素晴らしい答え、その「内容」以上に、自らの探究を放棄した目の前の人に対して、イエスの放った確固たる「態度」に心動かされます。イエスはちゃんと彼に向き合い、二つの掟が大切だと答えました。「神を愛し、隣人を愛せよ」。ファリサイ派の人びとだってこの掟のことは知っていたでしょう。けれども「頭で知っている次元(専門家)」と「全人生を賭けて探究している次元(イエス)」の差は明らかです。結局、この専門家の惜しい点が露わにされたのです。
イエスへの質問 ——。 イエスに向かってわたしはどのような問いかけをしているでしょうか。今日のこの律法の専門家のように、思い切ってへぼな質問をしてみましょう。それは、本来、わたしが何を探究していたかに気づくためでもあるのです。自分と仲間のミッションを見失わないために…… 中心軸をイエスとともに取り戻しましょう。
マタイによる福音書22章34ー46節
2023年10月29日